高橋玄洋 テレビドラマ作品

昭和34年(1959年)
テレビ番組タイトル
*脚本タイトル(所蔵)
放送年月日
曜日
時間
放送局
制作
登場人物=出演者 原作・演出等 補遺 他番組
ドラマ「母の履歴書」

*ホイットマン詩”天井”より 母の履歴書(尾)

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1959/2/28

20:30−21:00
NET

日本教育テレビ

母きん=近松良枝、娘仙子=海老原響子、その恋人松山=永山大樹。 作・演出
演技指導:程島武夫。
D:後藤武彦。
ラジオドラマ懸賞当選作品をテレビドラマ化

『生きて愛して死んだ』(ソノレコード、1964年)に収録。

 
「嫁ぐ日まで」

 

1959/5/12

20:00−21:45
NET

下元勉、高田敏江、三田佳子、高橋とよ、文野朋子、清水一郎 AD(脚色)
原作:島津保次郎。
野球のないときに放送するレインコート番組。当時は生放送。  
サンデー劇場「愛と死」

*NECサンデー劇場 愛と死(所)

1959/11/29

20:00−21:00
NET

日本教育テレビ

村岡新二=小泉博、野々村夏子=八千草薫、野々村冒也=伊達信、俊子=久慈あさみ、村岡の母=一の宮あつ子。 演出
原作:武者小路実篤。
脚色:田村幸二。
提供:日本電気、新日本電気  
*注 (新しいウィンドウを開きます。)

昭和34年 昭和35年 昭和36年 昭和37年 昭和38年 昭和39年 昭和40年 昭和41年 昭和42年 昭和43年 昭和44年 昭和45年 昭和46年 昭和47年
昭和48年 昭和49年 昭和50年 昭和51年 昭和52年 昭和53年 昭和54年 昭和55年 昭和56年 昭和57年 昭和58年 昭和59年 昭和60年〜

テレビ放送開始の頃から昭和34年(1959年)まで

昭和28年(1953年)
2月1日 NHKが、テレビの本放送を開始。
当時の新聞報道によると、受信機が約1200台で3月頃までには2100台位と予測。「3万台普及したとしても都内では233人に1台の割の普及率」
「受信機が7インチから10インチの小型が10万円から15万円、17インチから20インチの大型が15万円から20万円」だった。
8月28日 日本テレビが本放送を開始(民放初)

昭和30年(1955年)
4月1日 TBSがテレビ放送を開始(民間放送で二番目)

昭和31年(1956年)
5月1日 水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表

4月2日 ナショナル劇場
12月2日 東芝日曜劇場(TBS)〜2002/9

昭和32年(1957年)
7月7日 ナショナル日曜観劇会(中部日本放送)13:15-15:00頃 劇場中継のテレビ番組

昭和33年(1958年)
12月23日 東京タワー完工式

2月24日 月光仮面(TbS)月〜土18:00-18:10日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画 1959年(昭和34年)7月5日まで放送
4月3日 事件記者(NHK)木21:00-21:30放送開始から1963年4月までは全編が生放送(ウイキ)〜 1966年3月29日まで
4月7日 バス通り裏(NHK)月〜金19:15-19:30 〜1963年3月30日までの間、生放送。放送開始当時は、少年少女の家出が大きな社会問題。
10月31日 私は貝になりたい(TBS)第13回芸術祭賞受賞作品。

昭和34年(1959年)
2月1日 日本教育テレビ放送開始
3月1日 フジテレビ放送開始
3月11日 テレビの視聴時間は中学生の20パーセントが1日5時間(文部省調査)
4月10日 皇太子成婚式
7月2日 日本テレビが、巨人対大洋戦で世界初のカラーでナイターを中継


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